kurukuru123のブログ

乳ガンステージ2、原発肺がんステージ0、遺伝性難聴

29年、前にも書きましたが父も肺がんでした。


運転中気分が悪くなり救急車で運ばれたのが、家から近い総合病院でした。

父の性格は真面目で我慢強い、ぎりぎりにならないと病院にいかない人でした。


その性格が災いになり、車中で気分が悪くなり🤮もどしてしてしまったのです😟


運ばれた病院は🫁肺結核だと、最終的にわかった病名とはちがう誤診でした。


大阪で🫁肺専門で有名な病院に転院


検査すると、肺腺癌、わたしと同じです。


でも父のガンは末期、両肺にガンが散らばり

脳にも転移、もちろん手術はできません

車でもどしたのは脳腫瘍の影響でした。


余命宣告されました。早くて3月から半年


母も家族全員ショックで、ついこの前まで働いてたし

3ヶ月て・・・・🥺💧💧💧


主治医が本当にに嫌なタイプでした。

得に患者の家族に対して冷たい、キツい


父の病状を詳しく聞いても、この前話しました。知りたければ自分で調べてください❗️



なんだ❗️この医師は❗️末期がんの親の心配、精神的にも辛い気持ちがわからない、思いやりのない医師


今みたいにネットや情報がたくさん調べれる時代ではなかった。


あるときは、新しい抗がん剤、あの病院が研究したのか、お金はいらないから試させてほしいと、

もししなければ、他の病院に、出て行ってほしいと


新薬を試させてほしいのはわかるが、後の言葉は医師いや人間の言う言葉?


末期ガンで父はまともに歩けない状態、脳にも転移してる患者を引き受けてくれる病院探すのは大変❗️


今みたいに訪問看護も、何もない時代


それを誰より知っている医師が口から出た言葉


はじめから好かない医師だったけど、もっと嫌いになった。


結局新薬試した。もしかすると効くかも?

藁を持つかむ思い。


結果は全く効かない、腫瘍が増えてる


間もなく父は亡くなりました。


父が息を引き取ったときも、あの医師は立ち会わなかった


あの冷たい医師は絶対ゆるせない


大阪では肺では上位に入る病院だし、

一度はセカンド・オピニオンを考えたけど

あの医師も、もう引退してると思ったが

思い出すので辞めました。


わたしは市立病院や連携のクリニックや他に行ってる個人病院の医師も看護師さんも優しくて親切、先生もおだやかな、冗談が通じる柔らかい人ばっかりなので、もう10年ほどお世話になった先生や、会うのが楽しみの先生も、わたしは恵まれてます。


父の事を思い出して長々と書いてしまいました。読んでいただいてありがとうございます。

半年ぶりの

呼吸器外科の定期検査がありました。

乳腺外科は連携のはじめに行ったクリニックで3ヶ月ごとに行ってます。


呼吸器外科は乳ガン手術の際に検査で肺転移と違う影が見つかり、その時点では悪性か良性かわからない、

乳ガン手術も済み、抗がん剤も済み、肺の影の大きさが変わらない、もし悪性でも初期で病理検査しないと区別がつかないの判断でした。


わたしは悪性でも良性腫瘍でも体の中に腫瘍があるのはもう耐えられない、


もし、悪性なら経過観察やセカンド・オピニオンしてる間に腫瘍が大きくなって、転移でもしたら

後悔するのはイヤ!



それは父が肺がんで亡くなってるからです。

わかった時は全肺に散らばり手術出来ない状態、続いて脳に転移、


余命3ヶ月から半年


父のように手遅れになりたくない。



先生に手術をお

願いしました。



やはりガンでした。

初期のステージ0

完治も望めると

手術してよかった。


傷口も5センチほど


乳腺外科の先生が次は半年後の経過観察と言われ

2、3日してから乳腺外科の先生から、一度呼吸器外科の先生に詳しく説明してもらうようにと、電話を貰いました。


乳腺外科の先生は良性と思われてたみたいで、手術後部屋に来て下さった時、ガンであった事を告げると、凄くビックされて励ましてくださいました。


ふたつも?原発ガンがある人は珍しいのでしょうね


乳ガンはもっと前からでしょうね



今日は呼吸器外科でCTとレントゲン、血液検査、


異常なかったです。良かったです。


最近咳が出てたのでちょっと心配したけど



呼吸器外科は薬はのんでないので、次は来年、1年後です。


あまり間が空くので心配ですが、


先生も移動にならないかと心配です。


説明もしっかりとい


いい先生です。

噂では国立医大出身の若手ホープ

スペシャリストと言ってもいいほどの先生で


いい先生と巡りあえて運が良かったです。

笑われる難聴者

昨年ガンになって抗がん剤や薬の副作用で難聴が益々悪くなってしまいました👂️


少しづつ難聴になって10年近く、

補聴器も買いました。高価な補聴器も今や役にたちません


はじめの頃は補聴器しなくても人と会話が聞けました。

徐々に難聴がひどくなり、友達の誘いもなくなり、本当に親身になってくれる人だけ、今でもお付き合いがあります。後LINEで近況報告しながらのお付き合いの人


離れて行った友達はうわべだけの人だったのがわかりました。


スーパーのレジの人に何か聞かれても聞こえないので「難聴で聞こえません」と言っても、声を大きくするだけで、最後は笑いを浮かべてます。


あるケーキ屋さんに行ったときも、聞かれ、

難聴で聞こえないことを言うと、スーパーのレジと同じ、声を大きくするだけ、おまけに他の店員が顔を見やわせて薄笑いをするではないですか!若い店員ならまだしも30~40代の店員です。


難聴だったらどこが面白いのでしょう?



わたしはくやしくて、腹が立ち、

「聞こえないものは聞こえません、紙に書いてください」と言いました。


結局ドライアイスがいるかいらないかのことでした。


こちらもメモとか書談アプリとかしてなかったのも、問題ですが


お店の障害者に対しての対応の指導がないです。


車椅子や松葉をしてる人に笑いますか!?

目の不自由な人を笑えますか?

体に障害ある人に笑いますか?


そのお店は石切神社の近くのお店、

美味しいので有名でTVのロケも何回もしてる店です。

わたしはいくら美味しいくても2度と行きません


母も全難聴でした。


母もいろんなところで聞こえないので笑われ

バカにされた扱いをされて泣いてました。


そのころはわたしは学生だったので

そんなひどい大人がいるのか?信じられませんでした。



昔も今も障害者、難聴者に対する接し方は変わらないのですね